日々起案

田舎で働く弁護士が、考えたことや気になったことを書いています。

『お母さんのせいきゅう書』

ある朝、たかしがお母さんに1枚の紙切れを渡しました。それは、せいきゅう書でした。たかしは、「お使い代」「お掃除代」「お留守番代」として、500円を請求したのです。

お昼どき、お母さんは500円と一緒に小さな紙切れを渡しました。お母さんからの請求書でした。

「3,778,200円(平成29年賃セ女性全年齢)÷365日×362日(たかしがお手伝いをしなかった日数)=3,747,146円

それを目にした、たかしの目には涙があふれました…。

道徳の教科化に関する番組の話題で、まず思い浮かんだのが主婦休損でした。

弁護士的には、家事を賃金センサスで金銭評価するのは、当然というか条件反射に近いことなので、こういうしょうもないことを考えてしまいます。


それはそれとして、上記番組で教師がした質問「お母さんは、どんな気持ちでたかしに請求書を渡した?」に対する答えですが、個人的には、少数派の子供の方が合理的な思考だと思います。

もしも本当にこの母親の愛が「無償の愛」なら、たかしに「自分は『無償の愛』を与えている」と伝える必要もないはずです。見返りを求めないのが「無償の愛」なのだから、たかしが母親の存在をどう思おうと気にしてはいけません。たかしが自分の愛に気付き、感謝することを求めてはいけないはずなのです。

にもかかわらず、敢えて「0円」で請求書を渡すという行為は、どう考えてもたかしの行為に対する皮肉です。「お前が金銭を求める行為を私は無償でやっている」「私の愛に気付け」「私の存在に感謝しろ」と暗に言っているに等しい行為です。少数派の子供の「子供っていいな。私も子供がいいな。」は、たかしの行為を皮肉っているという意味で、的を射ています。

私がこの先生の質問に答えるとしたら、このような皮肉を教育的な行為として考え、「たかしが感謝を忘れていることに悲しんでいる」「自己中心的なたかしを穏やかに叱っている」と答えるかな、と思います。

そもそも、文脈から登場人物の心情を読み解くのは、道徳ではなく国語の問題なので、この教師の質問はそれ自体悪問と言わざるを得ないのですが…。