日々起案

田舎で働く弁護士が、考えたことや気になったことを書いています。

裁判員裁判の弁論に演出は必要か?

一部の本では、裁判員裁判での最終弁論について、「裁判員に語りかける」とか「法廷中央に歩み出てペーパーレスで行う」といったやり方を推奨しています。これは、裁判員に「傾聴させる」「理解させる」ためのテクニックとして有用であるという趣旨です。

しかし、私個人としては、こういったテクニックの有用性については懐疑的です。

司法修習中に評議を見たり、実務で裁判員裁判の弁護活動をした経験からすると、裁判員は、こちらが思っているよりもずっと真剣に裁判を見て、考えています。語りかけにより記憶を喚起するとか、立ち位置で注意を集中させるとか、ペーパーレスで「読み上げている」印象をなくすとか、そういったことではほとんど心証を変えられないくらい、言葉の「中身」を聞いています。

これは、ある意味裁判員への「信頼」です。主張を総括しただけであろうが、弁護人席から紙を片手に読み上げようが、その主張が論理的で、争点としっかり噛み合っていさえすれば、正しい判断をしてくれるはず、という信頼に基づいています。そして、そうした正しい判断の前提には、弁論の読み上げ方から得られる「印象」など入り込む余地はないように思えるのです。

仮に心証に及ぼす影響があるとしても、それほど大きいものとは思えません。むしろ、客観的に判断しようと懸命になっている裁判員からすれば、変に語りかけられればかえって悪印象を持つ場合もあるかもしれませんし、ペーパーレスでやろうとして失敗でもしたら、かえって印象は悪くなりそうです。そういったことがないように徹底的に練習しておくのは大前提なのでしょうが、人間に完璧はありません。リスクは必ずあります。私は、こうしたテクニックが裁判員に与える影響と、最低限残るリスクとを比較衡量してみても、後者の方が大きいのではないかと思います。

結論として、裁判員裁判の弁論だからといって、演出は必要ないと思います。ペーパーの中身(論理構成)で勝負するのが必要十分であって、それ以上のことに気を使うのは、リスクに対するリターンが皆無又は小さすぎると思います。